ニャンチママの日記

発達障害の子どもたちの子育てと教育についてのブログです

ユッキー17:みくちゃん母ちゃんの言葉を思い出しながら・・・・

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なんと、昨日ユッキーから電話がありました。滅多に電話などしない子なので、悪い知らせかとドキドキしてしまいます。ユッキーは31歳になったけど、いまだに、何かやらかすんじゃないかと心の奥底では心配している母です。

「いやー母の日(1日遅れでしょう〜)だったからちょっと電話してみた。」ということで、ホッ!

というか、初めてじゃない?こんなこと。

 

東京のハザードマップで真っ赤なところに住むのを心配している母に、相変わらず「大丈夫、大丈夫。」を繰り返すユッキーでした。

 

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1年生の時のことに話を戻します。

友達と仲良くできたり掃除を頑張ったりしたかと思えば、順番抜かしをしたり、友達の物を破いたり・・・。数字カードを100までなんか並べないとひっくり返ったり字の書き直しをしないと言って遊んだり。

先生は毎日丁寧にお手紙をくださり、母は一喜一憂しておりました。

 

そういえば、ユッキーが1年生の時にお隣のクラスの担任だったN先生と、最近英語の会で出会う機会がありました。妹の話(彼女に2年生の時に担任してもらった)をしていたら、カナダ人の先生が、「いい子だった?」と尋ねてきて、N先生は「女の子はいい子でした。」と説明していました。それって暗に兄の方は大変だったってことよね〜。と言い方から思ってしまいました。そして、ユッキーの今の写真を見せたら、「まあ、立派になって〜。」といいつつも、大丈夫か?・・・て顔。

やっぱしね〜。1番大変だった頃を知ってるから・・・・・あはは・・・

 

大変だった頃、私がよく思い出していたことは、みくちゃんママのこと。

 

みくちゃんは、私が東京で新任の頃に担任していた6年生の子どもです。

言葉のない自閉症の大きな女の子でした。

癇癪をおこしては玄関の入り口のガラスも蹴って割るようなパワフルな女の子でした。

当時は養護学校義務化になった次の年で、東京都は早くから養護学校対象の子どもも障害児学級に入れていました。

みくちゃんはかなり知的に重度のお子さんで、育てるのは大変だったと思います。

みくちゃん母ちゃんは、家業の八百屋を営みながら、家族の世話(特にお姑さん)やみくちゃんを育てることで大変だったと思うけど、とても愛情溢れるやさしいお母ちゃんでした。

みくちゃんが卒業するお別れ会の時に、お母さんがみんなにお話をしてくれました。

「わたしは、みくが小さい頃、何度もビルの屋上とか一緒に行って、二人でここから飛び降りたいと思いました。こんな子が生まれたのはあんたのせいだとお姑さんにも何回も言われました。でもある時星を見ながら思ったんです。この子はわたしじゃないと育てられないと思って、神様がわたしに授けたんだと。いろいろあったけど、この子のおかげで、いろんないい人たちにも先生方にも出会えました。これからもこの子と頑張ります。」

 

この時のみくちゃん母ちゃんの話は、わたしの心の支えになりました。

みくちゃん母ちゃん。わたしも頑張るよ・・・・と思って、毎日踏ん張っていました。

 

今思えば、ユッキーたちのおかげで今の私があると思います。私が教師のかたわら、勉強会に出かけて支援教育の勉強をしてきたことや、臨床発達心理士の資格を取ろうと思ったこと。同じようなお母さんたちを応援できればと思って今の心理士の仕事についたこと。新たに先生を目指す人たちのために、私の経験を語りたいと思ったこと。・・・・

 

苦労して子育てしたことで、私も育ちました。

ありがとう。

ユッキー16:マイブームは株価チェック

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今日は母の日、3番目のハーちゃんからカーネーションが届きました。女の子たちは、毎年何かしら母の日にプレゼントしてくれます。ユッキーは長年母の日にも誕生日にも何も音沙汰なしだったのですが、ここ3年、誕生日にプレゼントをくれています。すごい成長です(うれし涙)

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ユッキーの1年生の頃のマイブームは、株価チェックでした。(やっぱりアスペっぽい)

おじいちゃんが株をやっていて、毎日のように株価を見ているのを見て、質問攻め。株の仕組みが分かったんだか分かってなかったんだか・・?ではありましたが、おじいちゃんの株がいくら上がったんだとか、今日はどこそこの会社の株がすごく上がっただの下がっただの、ジージと話していました。孫可愛さにジージはでれでれで、ユッキーは賢いと喜んでいました。

 

2年生の頃はマイブームは去っていたのですが、中学生の頃は、証券会社のやっている子ども向けの仮想株価ゲームみたいなのをやっていて、「僕は20万円を300万にした。」みたいなことを言っていたように思います。

 

ずっとずっと後になり、就職試験にことごとく落ち、自主留年してもう1年就活をし、やっと受かった会社が証券会社で、小学校1年生の時のことを思い出して笑ってしまいました。証券会社の営業マンか・・・・。

 

その頃、担当していたアスペっぽい子どものお母さんとお話しする機会がありました。お母さんが言われるのには、息子は父親とそっくりだと。ちなみにお父さんは何の仕事をされているのか尋ねると、何かの大きな機械を売る営業マンだということでした。それが凄腕の営業マンで売り上げが凄いんだとか。その機械の素晴らしさをとうとうと喋って相手をその気にさせるそうです。売れなかったら、その素晴らしさをわからない相手が悪いと落ち込むこともないのだそうです。なるほど、営業というのは、こういうタイプの人には向いているのかもしれない・・・・と思いました。

 

証券会社の営業マンは、相手の気持ちを察せないほうが、うまくやれるかもと思いました。

しかし、ユッキーは就職して丸1年して何と「うつ」っぽくなってしまったのです。「小さなお店をやってるおばあちゃんが、あんたが勧めるならそのファンド買おうかな・・とか言ってくれるんだけど、これでおばあちゃんが損しないかなとか心配になるんだよ。」と言っていました。

その話を聞いて、逆にうれしくなりました。ユッキーは人の気持ちを察せるように成長してるんだ・・・。

 

ほどなく彼はその証券会社をやめ、1ヶ月間アジアに放浪の旅に出ました。

 

 

 

 

ユッキー15:自然大好き

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長女が小さい頃植えたサクランボが、今年はたくさんなりました。

今が一番熟しています。

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今振り返って思うと、母としてよくなかったなあと思うところが多々あります。

 

一番よくなかったのは、ユッキーを普通にしようとしていたこと。

連絡帳を読み返してみても、私の子育てに力が入りすぎていたのが分かります。何とか成長の正規分布曲線の真ん中に近づけようとしていました。それはやっぱりあの子の情緒面を歪めていたと思います。丸ごと好きでいてあげたらよかったのに・・・・。

 

ユニークな面白いところ、いいところをいっぱい持っていたのに、日々の問題に振り回されていました。

でも、だんだんユッキーのよさを、ユニークでいいかもと思ってきていたとも思います。

 

(自然大好きユッキー)

我が家の周りは自然がたくさん残っていました。当時から流行りだしたファミコンをあまりさせていなかった我が家のユッキーは、同じような境遇の近所の翔くんとよく外で遊んでいました。もともと動くのが好きでなかった子どもなので、やっと外が好きになってくれたと喜んでいました。

そのうち「柿があったんよ。」とか「筍を掘ってきたから料理して。」とか、持ち主がいるとは知らずに二人でなんやかや食べる物を探すようになってきました。私と歩いているときも、「お母さんこの草食べれる?」とよく尋ねたりしていました。

ある日、翔くんのお父さんがやってきて、「たいへんなんよ。二人が植えたばかりの玉ねぎ全部ぬいちゃって。」・・・・・・・。

そこは農家の人が生産している玉ねぎの畑で、横15m 縦50mくらい。 苗は1000本以上あったと思います。

怒る前に、よくこんだけの広さの畑の苗を全部ひっこ抜いたもんだと感心して眺めてしまいました。引っ張ったらぽこっと出てくる2〜3cmの玉ねぎの赤ちゃんが、面白かったのでしょう

親子4人でお金を包んで謝りに行き、農家のおじさんに、長時間こっぴどくしかられました。

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(今でもこの家族と飲むときは、いつも酒の肴になる逸話です。)

 

このあと、この家族はよその県に転勤になり、なかなかこんな遊びはできなくなりました。でも、翔くん家族が里帰りするたびに自然の中での遊びをしていました。ユッキーの難しい話にもついていける友達でもありました。年に2〜3回、ときどきしか会えないからこそ続いて、今でも仲のよい竹馬の友です。こんな友達(親友)がいるのは、こういうタイプの子どもにとっては少ないと思うので、幸せなことだと思います。

 

 

 

ユッキー14:素直になったり駄々をこねたり

先生との連絡帳のやり取りの続きです。

 

12月9日 先生へ

仕事から帰って来ると、「お母さんこれ見て。」とすぐに(お正月の)輪飾を見せてくれました。「いろいろ工夫してあってすごいね。」と言うと「霧吹きで長持ちさせてお正月に飾ろうね。」とうれしそうに言っていました。

今日は自分からランドセルも片付けたそうです。宿題もすすんでやりました。

先生にほめられたことがとても嬉しかったようです。あまり学校のことは話さない子なのですが、「今日は先生にほめられたんだゾ!」とうれしそうに話してくれました。それで張り切っていたのかな・・・。

 

12月9日 先生から

今日は、朝、「おはようございます。」とあいさつして教室に入ったとたん、ユキ君が「おはようございます。」と抱きついてきました。

1時間目は「ずっとずっと大すきだよ」の感想文を書くのだったのですが、「やりたくない。」と言ったので、「粘土遊びでもする?」と聞くと「うん」と、このときばかりは素直にだまって一生懸命取り組んでいました。2時間目は算数で2学期のまとめで、教科書の問題をやるようにさせたのですが、「◯+◯=◯」とか大きな声で言うので、他の子から「うるさくて計算ができん。」と文句が出ました。「人の邪魔をするんなら、粘土の続きをする?」と言うと、「そうする。」と2時間目も粘土遊びを続けました。中間休み、一番に遊びに出ようとしたので、「みんなが勉強するときに遊んだのだから、今度はみんなが遊ぶときに勉強しなくちゃ。」と言うと大パニックになって、その後私と指切りをして、家でできるところまで頑張ってくると約束しました。

興味が湧くことには一番に取り組めるのですが、なかなか嫌なことには動作が向かないようです。

4時間目、道徳で「ありときりぎりす」と勉強をしたのですが、ユキ君は「夏に楽しんで、冬はありからご馳走を分けてもらうきりぎりすの方がいいんよ。」と言っていました。人間の生き方として、嫌なことも我慢して取り組まねばならないこともあることを教えていきたいと思います。

 

う〜む。難しいことは、ヒントを与えたり、量を調整してくれればいいのになあ〜

道徳の件はユッキーの言うことにも一理ある。外国での解釈はそうですからね。でも、ここは日本人としての解釈も教えておかなきゃですね。とにかく先生は真面目な方なのだと思いました。

 

こんなタイプの子どもは先生と合う合わないははっきりしていて、大変な年とすごく調子のよい年とありました。でも、今思えば、大変な年も試練で、いい経験ができたのだと思います。そのときにいろいろな対処をして親子で乗り切ってきたからこそ、今のユッキーがあるのだと思っています。

 

ちなみに彼は今、ちゃんと通常の就業で、企業でアリのようにちゃんと働いています(笑)

 

12月10日 先生へ

音読の宿題が終わって「もう一つ宿題がある。」と言って、算数の宿題をやりはじめました。その間に私は連絡帳を見てびっくり‼︎ どうするかなと見ていたら、集中して2ページやりあげました。周りでは妹達が遊んでいても、黙々とやれるのに、なぜ学校ではできないのか不思議です。でも、学校で先生と約束したことはきちんと守れているんですよね。

夕食後、主人と私とユキで、今日のことについて話し合いました。

「やりたくないと言ってやななくていいのか?」とたずねると、「いけない」と言っていました。「じゃあどうしてやらなかったのか?」とたずねると、ノートに書くところがなかったからと言っていました。ノートはあと6ページもあったのです。(この前から全然ノートに書いてなかったので、駄々をこねて書いていないんじゃないだろうかと心配していました。)

それからいろいろ話し合って、結局感想を書くことになったのですが、いざ書くとなると書けなくて、エルフが死んだことに対して、家で夏にカブトムシが死んだことを思い出させながら書かせました。夏休みの感想文は、一つ一つ質問しながら1週間くらいかけてやっと書いたんです。何か一つのことに対しての考えくらいなら書けるけれど、思ったことを書くように言われてもユキには難しかったのかもしれません。

 

自閉傾向のある子どもは感想を書くのは難しいですよね。気持ちが察せないのだから。)

 

算数の時間のことについては、ふざけていたと言っていました。これは完全に先生に甘えていると思います。

 

(場の雰囲気を感じとれなかったり、マイルールが通ってしまって強化されてしまっていたりしてますね。)

 

ユキの癇癪や駄々をこねることには小さい頃から随分悩まされてきました。別に特別なことを強制してやらせているわけではなく、ただ普通の日常生活を営むときにやらねばならないことをしたがらなかったりするのです(一番の例は「歩くこと」)。それもひどい駄々のこねようなので、随分手を焼きました。

でも、やらなければならないことは、どんなに駄々をこねてもやらせるようにしてきました。こちらがひどく怒るともっと意固地になるので、優しく言ってみたり、待ったり・・・。「〜しなさい。」という言葉には拒否反応を示すので、「〜しよう。」と言ったり、ご褒美をあげてみたり、自分でやることを決めさせたり、活動量を少なくしたり、すごくほめてやったり・・・・いろいろな手を考えてやらせてきました。それは今でもよかったと思っています。それを彼の言いなりにやらせなかったら、今、興味関心のあることも、なかったと思うからです。

ただ、今にして思うのは、彼にしてみれば、自分のやりたいようにできなかった心の痛みがあったと思うので、その部分のなぐさめがもっと必要だったのではないかと思うのです。心のフォローは必要だけど、やらねばならないことは、やはりやらせないといけないと思います。

今の学校の状況を見ると、家よりひどいと思います。保育園のときは家では大変でも、一応みんなと同じことをやっていたと思うのですが・・・・・。

学校はきまりが多いし、やることも高度なので、ユキにとって大変なことが多いとは思いますが、嫌だと言っても何か活動の手がかりを持たせてやるとできないことはないのではないかと思います。

保育園のときには先生にはあまり打ち解けていないようでしたが、今はM先生にとても親しみを持っているようです。その分甘えが出て、駄々を言いやすいのだと思います。家でも私やおばあちゃんに一番駄々をこねるのですから。ユキの駄々こねに私が負けそうになると、いつも義母が、「ユキはお母さんに駄々をこねて、どれくらいだったら言うことが通るか試してるのだから、ここぞと思うときには負けちゃいけんよ。」と随分励まされてきました。

本当に大変だと思います。先生の大変さは私にもよく分かります。でもユキのためによろしくお願いします。

明日は頑張ると言っていました。

ユキを信じて私も元気を出そうと思います。

 

25年前、広汎性発達障害ぽいところは、私もわかっていなかったので、理解しがたいところも多々ありました。今ならもっと上手に育てられてたかも。

 

 

 

 

ユッキー13:先生、ユッキーを理解してください。

先生は現在のユッキーの姿しか見ていないので、「やればできる」「やろうとしないのはわがまま」と思っていると思われました。だから、今までの状況を先生に説明して理解してもらうしかありません。

 

次の日、放課後学校に出向いて、先生とお話をしました。

 

ユッキーが赤ちゃんの頃から体の動きが緩慢だったこと。

バランスが悪く、手先も不器用だったこと。

それに気がついて、家族ぐるみで頑張って体を動かすようにさせてきたこと。

何とか小学校に上がるまでに、伸ばせるだけ伸ばしてきたけど、やはり今でもみんなと同じ速さで活動させようとすることは、本人にとってはとても大変苦痛なことなのだということ。

 

彼が動きたがらないのを何とか動かして成長させようとしてきたことが、本人にとってはストレスになり、親への反抗のような状態が家ではあったこと。

保育園では我慢して頑張っていたのだけれど、小学校ではあまりに高度なことやたくさんの活動を要求され、かなり苦痛に感じているようだ・・・・・というような私なりの分析もお話しました。

 

その上で、お願いしたことは、

活動量を調整をしてほしい。特にやり直しはみんなの半分くらいにお願いしたい。

悪いことは悪いと指導していただいてOK。そして、どうしたほうがいいのか教えてほしい。

連絡帳は、いけないことをした時に連絡があるとユキは思い始めているので、最近見せたがらなくなっている。ということは、先生は僕の悪いことばかり親に知らせる、僕のことが嫌いなんだ・・・・と思っている節がある。なので、悪いところがあるのは重々分かっているので、できれば学校で頑張っていることを知らせるようにしてほしい。私も先生に家で頑張っていることをお知らせするようにしたい。

というようなことをお話ししました。

 

先生とユッキーの関係、親とユッキーの関係を良い方向に持っていかないと、数々の問題は解決できないと思いました。

 

12月7日  先生へ

日曜日はTくんとYくんと一日中ゲームをしたり外遊びをしたりして元気よく過ごしました。元気すぎて右手の親指を怪我してしまいました。チェスのようなゲームに凝っていて、よく先を読みながらゲームできるようになってきました。

 

12月7日 先生から

親指を怪我しているのを見て、「どうしたの?」と聞いたら、「これはおまじないなの。」といっていました。輪飾作りはとても一生懸命取り組みました。大きいのや小さいのができましたよ。

 

12月8日 先生へ

持ち帰った輪飾を、みんなに上手にできたねと褒められてとてもうれしそうにしていました。小さな輪飾はひもを通してペンダントのようにしていました。12月7日の日課をユキが割と綺麗に書いていたのでお父さんに褒められました。

 

12月8日 先生から

今日も少し立ち歩いたりすることがあったのですが、窓のところに上がっていた時、「降りておいで」と抱っこしてあげたとき、「やったー」とうれしそうにしていました。やはり注意ばかりが先行してスキンシップがたりなかったのかなと反省しました。昼の掃除のとき、観察園に腐葉土を運ぶのをとてもよく頑張ってくれて、5時間目まで一生懸命働いていました。「ゆき君、これ頼むね。」と名指しで頼んだことは、本当によく責任持ってやってくれます。「花壇に何を植えるの?」と気になるようでした。

 

連絡帳にいいこと、頑張ったことをお知らせしてもらって、ユキの表情も少しよくなってきました。先生は、親にだけでなく、ユキ向けにもお手紙を書いてくださり、とてもうれしそうに読んでいました。お忙しい中、毎日お返事をくださって、とてもありがたく思いました。

 

 

 

ユッキー12:先生からチョ〜長いお手紙が・・・・・

 それからしばらくは何もお手紙がなかったので、少しは落ち着いたんだろうかと思っていたら、12月はじめに先生から連絡帳5ページにわたるお手紙が届きました。

 

12月5日 先生から

 ユキくんの学校の様子をお知らせすることにためらったのですが、お知らせしておきます。

 マラソンの下見等で緑地公園へ行く時など、わたしの手を握りに来て、根はとても甘えん坊なのかなと思います。ただ、人の注意がなかなか素直にきけなくて、乱暴な行動に出ることが多いです。

 一昨日も脱いだ服を床に散らかしていたので、注意して片付けさせましたが、今度はベルトがないと言って半日ずり下がるズボンのまま、パンツを見せながら過ごしました。

 給食当番も他の子に何度文句を言われても仕事をしようとしません。箸を配る子が忘れていたら、「スプーンじゃないといらない。」と言って今日は手づかみで食べました。

 書き方の時間、文字の間違いを注意したところ、「丸じゃないといやだ。」と言って残りの時間は床の上に寝そべっていました。

 落とし物や学校へ置きっぱなしになっている物をできるだけ声掛けして直させようとするのですが、「いちいち言わなくてもできる。いちいちうるさいんだから。しょうがないあな。」という言葉が返ってきて、なかなか動作にうつしてくれません。

 昨日は「どうして注意したことが素直に聞けないの?先生が嫌いなの?」ときいたところ、「先生が全部きらいだ。」という答えが返ってきました。「先生がどこを直したらいい?」ときいたら、「しからないでほしい。100点にしてほしい。」という答えが返ってきました。先生もしからないよう、100点にするよう努力するから、ユキくんも先生の注意を素直にきいてね、と約束したのですが、今日も駄々をこねて私にボカボカなぐってきたところを、ちょうど生徒指導の先生に見られて、後で話してきかせてもらいました。その時はとてもおとなしく話を聞いていましたが、教室ではわがままが出るようです。

 私の指導力が足りないため、私の思いをなかなかユキくんにわかってもらえず残念です。先生は嫌いだと言いながらも、私に「ねえねえ、」と休み時間には抱きついてきたりするので、ユキくんの素直にならない原因が何なのか知りたいと思います。

 

 まだまだ続くのですが、ここまで色々あるとは・・。

 ユッキーの様子にも驚きましたが、先生が休み時間にこれだけの量の文章をきれいな字で書かれているというのも、同業者としては驚きというか感心するというか・・・・。先生も追い詰められていたのだとは思いますが・・・・。

 

 どうしたものかと、考え込んでしまいました。

 

 保育園ではこんなことはありませんでした。

 家では、小さい頃に比べたら少しずつ耐えることや頑張れることも増えてきていたので、学校のこの様子は驚きでした。

 学校で求められることがユッキーにはストレスになっているのは確かでした。それでも頑張っていたと思うのですが、もう耐えられなくなったというサインなのでしょう。先生や友達に注意ばかり受け、すっかりいじけモードで情緒不安定になっていることがわかりました。先生に本当は認めてほしいんだけど叶わないというユッキーの姿がありました。

 家で厳しくしすぎてる?うつになっちゃった母にはぶつけられなかった?

 「わがまま」という言葉で済まさないでほしい。このままでは、ユッキーが学校教育につぶされてしまう。

 

 私は学校に行って、先生と直接お話をすることにしました。

ユッキー11:先生からのお手紙

 担任の先生は、わたしより若い女の先生で、とても几帳面そうでした。どんなに忙しくても連絡帳のお返事はとても丁寧な字で感心していました。

 不器用で処理能力の困難さを持つユッキーでしたが、1年生のはじめはそれなりに学校では頑張っていたようです。

 私たちの住む県では1学期、2学期と個人懇談があって、通知表は懇談しながら親に渡されるようなシステムになっています。でも、1学期の終わりの懇談は、先生が怪我をされて、行われず、学校での具体的な話を聞くことができませんでした。

 2学期は運動会など大きな行事があり、それも何とか頑張っていたので、家ではことごとく駄々をこねていても何とか外では保育園のときのようにやっているのだろうと安易に思っていました。

 

 11月になって、頑張って書いていた連絡帳の字が乱雑な読めない字に変わっていきました。そんな頃、読書感想文のクラス代表になって、原稿用紙に小さな字で3枚も清書しなくてはならなくなり、それは彼にすごくストレスのかかる苦痛な出来事だったのではないかと思います。その頃からユッキーの様子が特に落ち着かないくなっていきました。

 

11月11日 先生からの連絡

 2年生とのお祭りでは、竹とんぼをたくさん作って店を出し、よく頑張っていました。音楽会の練習ではナレーターを頑張っています。でも根は気が小さいのか、ややもじもじしながらも、一生懸命頑張っています。

 ただ、製作中、練習中、なかなか自分の考えが強く、他の人から注意を受けても素直になれないことがあります。本人にはわざわざしかられることはしないように、注意を受けたら直すように言うのですが、これも個性と思いながらも・・・・。ついつい名前を呼ぶことが多くなって申し訳ないなあと思っています。

 ユキくんの良いところを伸ばせるよう、どのように指導していったら良いかと考えています。

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 学校でも家と同じような様子が出ていることにちょっと驚きました。

 その日、夜に先生にお電話をし、いろいろご心配をおかけしていることを謝り、詳しくは連絡帳に書くということをお話ししました。

 

 母から先生へ

 昨日は遅くにお電話しましてすみませんでした。ユキは、赤ん坊の頃には運動に対する意欲のない子どもで、寝返りも歩くのも意欲がなくて随分心配し、気をつけて体を使わせるようにしてきました。手先を使うことなどもあまりしたがらなかったのですが、この頃はそういう点でも意欲がみられるようになってきたので、うれしく思っています。でも反面、ユキには嫌なことを強制してやらせたこともあるので、意固地な性格を助長してしまったのかもしれないなあと反省しています。

 毎日の生活を振り返ってみても、ユキには小言ばかりが多くて、なかなかほめてあげられず、いじけて素直になれないのだろうなあと思います。

 小さい頃からの成長の様子から考えたら、他の人にとっては苦もなくやれることが、ユキにとっては何倍も努力がいることなのだろうと思います。

 そう思ってユキを理解して、なるべく認めてあげるように、情緒が安定するように親として努力していきたいなあと思っています。

 先生にはいつも大変お気遣いいただいてうれしく思っています。これからもお手数をおかけするかと思いますが、よろしくお願いいたします。

 

 

11月13日 先生から

 お電話、お手紙有難うございました。私も連絡帳に書いたものどうか悩みつつ、書いた後もつまらないことを書いてしまったと後悔しておりましたが、お話しを伺って、霧が晴れたような気がしました。

 自分の思うように行動し、活き活きと活動するユキくんは、トムソーヤーみたいで、見ていると本当に楽しいです。でも、集団の中になると、みんながきちんとしている場合等には、少し変わっているなあと思えることもあります。学校教育の中で、ゆとりゆとりと言われるわりには、日々年々行事に追われ、教師の心にどんどんゆとりがなくなっていくようです。心にゆとりを忘れず、子どもたちを暖かく見守ってやりたいものだと思います。

 今日は時間やチャイムにとらわれず、公園でドングリや木の実、落ち葉を探したり拾ったりしました。そんなときは、ユキくんは実にいきいきしています。

 指導が行き届かないことが多いかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。

 

 25年前の話です。まだ発達障害なんて診断名がなく、特別支援教育やインクルーシブなんてことはまったく教育界にはなかった頃の話です。

 今は、こんなタイプの子どものこのような話はどこでもあるけれど、当時は珍しいことでした。私も特殊教育をやっていましたが、自分の子どもの状態をどうとらえて、どう接していくことがよいのか、本当に悩んでいました。

 先生を味方につけて、一緒に頑張ってもらうしかない。

 そう思った母でした。

 

 しかし、このあとも、堰が切れたようにいろいろな問題が噴出していくるのでした。