ユッキー10:小学校は大変だよ⤴︎
ユッキーが1年生になって、親子で大変な毎日がはじまりました。
まず、宿題。
市販のプリント1枚なんだけど、
なぞり書きはかなりずれているし、ひらがなの形は悪いし…。
家で書き直しをさせたいけど嫌がるのはわかっているので、ほんのすこしだけ書き直してオッケーにしていました。それでもそれを済ますのに多分普通(平均)の子どもよりも4〜5倍の時間がかかっていたと思います。
それから明日の用意。
なるべく自分でできるようにしたいので、明日の日課を二人で見ながらやり方を教えていったけど、言うこと聞かない。昨日のまんまドンと入れようとしたり、鉛筆削るのをいやがったり。
それより一番大変だったのは、あるはずの教科書やノートや鉛筆などの文房具がないことでした。前の日に揃えて持って行かせても筆箱の中身が鉛筆一本だけとか度々なのです。いったいどこに消えてしまうのか?学校に置いてきたのか尋ねても本人は答えず、いったいどうなっているのか?????でした。名前書いてるのになあ。
そのうち教科書やノートがヨレヨレになり、もどってきた鉛筆や消しゴムがボロボロになっていたり(涙) プリント類もぐちゃぐちゃで連絡袋に入っていることなんかめったにない。学校は出すものが一杯あるのに、学校から家に届かない、家から先生に届かない(涙)
きっと担任の先生は、この親はどうなっているんだろう?どんな育て方をしてきたんだろう?と思われていたと思います。
両親、教師なのにね・・・・。
先生は1年生の時に初めて子どもと出会って、それまでの生育歴なんか何も知らないのだから、親がどんなに苦労してこの子を育ててきたのか想像もつかなかったと思います。
不器用で処理能力に困難さを持つユッキーにとって、学校という場所がどんなにストレスだったかということも先生にはわからなかったと思うし、それがどんな形で現れるのか、私にも予想できていませんでした。
ユッキー9:ママも発達障害だった?
ユッキーが1年生のときの話になる前に、ママのことを少し…
昨日、勤め先の病院のカンファレンスがあって、ウツになりやすい人の話がでました。自分がこういうふうになりたい、なるべきと思って頑張り、一所懸命にそれに向かう。自分では頑張れる、まだ大丈夫と思う・・・けれど、体の方は悲鳴をあげる。そして気が付いたらウツになってる。・・・・・という人たちの中に、やっぱり発達障害の特性を持つ人が割合として多いのでは?という話でした。
私だわ・・・・・
私は自分の中にうっかりミスの多さ、おとなしいけど不注意傾向が多いというのは気が付いていたけど、自閉傾向については気づいていないところがありました。
思い起こせばあったよね。
小学校1年生のときに、「遊んでいるひよこは何匹ですか?(先生は中と外に分けて考えていた)」と先生に尋ねられて、私は餌をついばんでいるひよこを、頑として「遊んでない!」と泣いて言い張った。(参観日に)・・・という逸話。(マイルール曲げない)
トランプをして負けると、悔しくていつも泣いていた。「泣かんでもよかたい。」といつも父に言われていました。(負けるのが認められない。よく言えば負けず嫌いですけど)
転校して馴染めなくて、1年間泣いて暮らした。中学になった時も高校の時も大学の時も、はじめはよくても6月頃に必ずブルー(環境の変化に弱く、切り替えが難しい)。大学のときなど、東京から実家にに週間ぐらい帰省してました。両親は何も言わずに家に置いててくれたけど、わたしが環境の変化に弱いとわかっていたのでしょうね。
6年生の時、友達5人で先生の家に泊まりに行ったことがありました。その時作ってくださった野菜炒めにベーコンが入っていて、その匂いを嗅いだ時、「いやだ。食べられない。」と思った通りに口にしてしまいました。他の大人っぽい友達にこそっと呼ばれ、「先生がせっかく作ってくれたんだから、そんなこと言っちゃダメだよ。」とたしなめられ、そのとき初めて、相手の気持ちを考えて喋らないといけないということに気づきました。(他人の気持ちを察するところの弱さ)
挨拶もそうです。近所の方に挨拶されたら返していたけど、中学になったある日、親から「近所の人に会ったら、自分から挨拶するものなのよ。」と教えられ、ああそうなんだ・・・・とやっとルールがわかった。・・・・というような調子。(状況を察する力の弱さ。)
学校の先生として、立派に授業をしなきゃいけない。準備もしなきゃいけない。記録もとってなきゃいけない。
母としてちゃんと子供の世話もし、遊び相手もして、立派に育てなきゃいけない。
と自分の力量以上のことをしようとしていました。
もともと抜けたところも多い人なんだから、無理な話です。
この『うつ』の経験で、自分の限界を知り、生き方の軌道修正をしました。というか、全然自信を失ってしまったのですが・・・・。
うつになった年度の終わりに、本当は退職しようかと思っていましたが、校長の熱心な勧めもあり、一度行ってみたかった養護学校(支援学校)に移動して新年度を迎えました。
ユッキーは1年生になりました。
ユッキー8:ママはウツになる
小学校就学までになんとかしなきゃという親の思いが強すぎて、かなりユッキーには無理をさせたのかもしれません。
特に文字に関しては、なかなか覚えようとしてくれなくて、焦りました。
仲のいい友達が、すらすら読めるようになっていて、自分がその子より読めないのがわかるユッキーは、余計読むことをしないようになっていました。
もちろん、手先が不器用なので、書くことだって論外。
「どうして子育てうまくいかないんだろう。」
反抗する息子に、かなり親としての自信を失っていました。そこに、職場でのトラブルも重なり、私は眠れなくなり、食欲もなくなり、体重が1週間で7キロ落ちるほど痩せてしまいました。思考がまるでできなくなり、学級集金のお金も正確に数えられなくなって、「私どうしちゃったんだろう。」と思っているうちに、職場に行けなくなってしまいました。
横になっているとグワングワン耳鳴りがし、体が泥の中に潜り込んでいきそうな感覚でした。
『学校の子どもたちに申し訳ないことをしてしまった。教師失格。自分の子どもたちにとっては、私は悪なんじゃないだろうか。母親失格。こんな私は夫にとってもお荷物なんだ。妻としても失格。』
ずっとそんな思いと、訳のわからない感覚の中にいました。少しうとうしたときには、これは夢なんだ、きっと起きたら夢だったんだって安心するんだ、と思っていたのだけれど、目が覚めるとやっぱり現実たと気づき絶望的な気分になるのでした。
本当に私は危ないとこまでいったのですが、夫や義母や同僚やいろんな人たちに助けてもらって、何とか職場にも復帰できました。今、『うつぬけ』という言葉が流行っているけど、完全うつぬけには5年ぐらいかかっているように思います。ウツになってから1年くらいはちょっとのことですぐに不安の暗雲が心の中にたちこめて、薬の力を借りなければそこからぬけ出れなかったのでした。。
「うつぬけ」ついては、またいつか詳しく書いてみたいものだと思っています。
このときユッキーは年長さんで、大事な時期だったのだけど、私はこんな状態になり、しつけや感覚統合どころではなくなっていました。結構強気でバンバン鍛える親だったと思うけど、まったく強く言えなくなってしまったのです。
今思えば、そのことはかえってユッキーにとってはよかったのかもしれません。何もできないので待つしかない。できたらほめる(笑顔がなくなっていたので、気持ちこもってなかったと思うけど)。ゆっくりペースのユッキーにはちょうどよかったのかも。義母にはだいぶ負担をかけてしまったと思います…。夫にも…。家族の多大な協力もあり、小学校就学までには かつがつひらがなが読めて、形は不格好ですが名前と幾つかの文字は書けるようになっていました。
保育園の先生は「小学校は大丈夫。心配ありませんよ。」と言ってくださいましたが、小学校のことを、よく知っている私は、不安に思っていました。
そして、その不安は的中してしまったのでした…。
ユッキー7:家庭での感覚統合
バーバは保育園の園長もやっていたほどベテラン保育士で、
さすがだなあと思うような環境作りをユッキーにしてくれました。
*壁とか掃き出し窓のところに大きな模造紙をずらっと貼って、好きに落書きさせる。
体の動きも悪かったけど、指先の動きもやはり不器用でした。鉛筆持つより、まずは腕を動かして体全体で筆やクレヨンで描いて遊ぶことをさせてくれました。最初はとにかくぐちゃぐちゃだったり、ひたすらながーく描いたり。そのうち丸みたいなのを描きだして、何かにたとえたり。とにかく描くのが楽しいなあと思えたのじゃないかな。
*広告切り(ちぎったりはさみで切ったり)
好きに切らせて部屋中雪みたいにして遊んで、片付けは掃除機かけるというようなことをしていました。
*ジージが作ってくれた砂場で、どろんこ遊び。
扁平足だったので、裸足にさせて、砂場で歩きながら山作ったり、池を掘ったり。足首とか力入れないとのめり込んだ足がとれないし、バランス取りながら物を作らないといけないし、手足に砂でかなり刺激が入ると思うし、かなり感覚統合になったんじゃないかな。近くに海岸があるので、そこを裸足で歩かせることもやっていました。
*本物のくず野菜でままごと。
畑で野菜を作っていたので、くず野菜や間引きした野菜を、ちょっと錆びた小さめの包丁で切ってままごとご飯を作る遊びをさせてくれました。やっぱ本物は楽しいですよね。ぶきっちょさんだったけど、面白くて随分とこれで遊んでいました。手を切るかなあと心配だったけど、この遊びではそんなに怪我もしませんでした。このおかげで、料理のお手伝いとかよくしたがるようになりました。玉ねぎむきやつけものにするきゅうりを切るなど私もやらせるようになりました。親子のふれあいにもなっていいです。いっぱいほめられるしね。
*裏山のアスレチック。
毎日通ったおかげで、少しずつできる遊びが増えていきました。最初は低い滑り台にのぼること、低い丸太渡り、低い丸太跳びなどから挑戦。ユッキーが4歳になった春には、10メートルくらいの山越えのようなアスレチックもゆっくりゆっくり登れるようになりました。これは本人もとても運動への自信につながったようです。
その他にも、私が当時勤めていた情緒学級から小さなトランポリンやセラピーボールなど持ってきては、家で遊ばせたりもしていました。
5歳くらいからは音楽教室に入れたのだけど、これは小集団で、とってもみんなについていけないというのが、本人より母の方が辛くて結局やめてしまいました。集団で同じことをするのはきついですね。
2年生からはサッカーにも入れてみたんだけど、これもとてもみんなの足手まといになるし、集団に合わせること、協力すること自体がユッキーには向かないのだと悟り、1年もしないうちにやめました。
スイミングは4歳くらいから入れたのだけど、みんなが3〜4回バタ足で進むところをユッキーはぷーかぷーか潜ったり止まったりしながらやっと1回行き、みんなよりかなり練習量が少なめ。でもみんなに迷惑がかかるわけではないし、まあいいかと目をつむっておりました。(しかし母は、何回なぐっちゃろうか***と思ったことか) スイミングは結局そのまま続け、何と4年生くらいには平泳ぎやバタフライもできるようになり、選手コースにも通わせました。決して速くはなかったけど、普通以上には上手になって、1つ自信を持てる運動ができてよかったなと思いました。
ぶきっちょさんに運動させたいけどなかなかいいものがなくて、悩んじゃいますよね。
運動面に関しては親も祖父母もかなり手を入れ、鍛えたかなと思います。
本人はどうだったのかなあ。辛かったのかなあ。
幼児期、かなりの癇癪持ち、反抗期だったのだけど、こんな風に嫌な運動面のことを鍛えすぎたのかなあと今思ったりもします。
ユッキー6:バーバ感覚統合開始
県の東部から南西部に転勤になったときに、義母は仕事を辞めて一緒についてきてくれました。本当に感謝しています。
1歳3ヶ月しか離れていない年子。3番目はもうお腹にいて、1歳7ヶ月違いで生まれてくる予定でした。2年10ヶ月の間に私は3人の子どもを産んだのです。(4年間授からなかったので、まさかこんなにポンポンできるとは思っていませんでした。)
義母の手助けは本当に助かりました。
ユッキーに運動させなきゃと思うのですが、自分は身重で仕事(その頃情緒学級を担任)もあるし、帰るのは6時過ぎ。帰ってきてからも子どもの日常生活に追われ、それだけで精一杯でした。
母は保育園に4時頃お迎えに行ってくれて、遊ばせてくれたりご飯も用意してくれたりしました。
おじいちゃんが家に広いサンルームを作ってくれて、そこに小さな滑り台やジャングルジムを置きました。最初は嫌がっていたけど、お尻を支えて登らせていくうちに慣れて、自分でも登るようになってきました。でも動きはやっぱり緩慢で、どちらかというと動きたくないようでした。
母は保母だったので、今までたくさんの子どもたちを見てきたのだけれど、その中でもこんなに動かない子はいなかったと言っていました。
私はその頃情緒学級を担任していて、学級にあった遠城寺の発達検査をして、運動の発達はやはり少し遅れているということを確認していました。(夫は検査なんかするなと言って怒ったので、その後はしていません。)
発達が遅れている→動かない→ますます発達が停滞する→周りのことはわかるからもっと動かなくなっていく
と負のサイクルに陥るのではと、とても不安になり、母にも相談しました。
母は気候も良くなったから外の遊具で遊ばせるようにしようと言ってくれました。
都合のいいことに、我が家は市の南側にある海の見える小山の麓にあって、山の上にはアスレチックがあったのです。
それから、母は毎日保育園にお迎えに言った後、アスレチックでユッキーを遊ばせてくれました。
今思えば、これは感覚統合訓練です。
バーバOT開始でした。
ユッキー5:ひどい癇癪
桜も終わり、ツツジが咲き出しました。今年初のメダカの赤ちゃんも誕生。
季節は初夏に向かっていますね。
今日もユッキーの話の続きです。
ユッキーが、2才くらいから、癇癪がひどくなりました。
思い通りにならないとダメなんです。
それから絶対に自分が悪くても謝らない。
頑固というか、へそ曲がりというか、
本当に育てにくい子でした。
エピソード1
実家に帰った時に、みんなで寝ようと思ってもどうしても「いやだ」と言って布団に入らないというのです。
入れようとすると飛び出し逃げ回るので、仕方なく寝たふりをすると怒りだしました。ガンガン頭をぶつけるので、ダッシュボードの角で額を切ってしまい大出血。(頭の傷は血が出やすいんですよね。)夜中に病院に駆け込み6針縫ってもらいました。
エピソード2
妹が生まれたので、はやく排泄を自立させたいと思い、1才9ヶ月頃の夏にはトレーニングパンツからパンツに替えました。
2才になったある日、パンツを自分で履かせたら、後ろ前になっていました。
「ユッキー反対だよ、それじゃおちんちんがお尻についちゃう。履き替えて」
と言ったのですが、本人は「これでいいの。」と言います。母は「ダメだよ」と言うのですが、ガンとして履き替えようとしない。
放っておいたら、1時間以上、パンツだけではだかで過ごしていました。寒い冬の日で、泣き言も言わず、ブスッとしてうずくまる息子に、このひどい頑固さはいったいなんなんだろう・・・??????と悩む母でした。結局母が無理やり着替えさせ、そのあともプリプリしているユッキーでした。
きっと、パンツをはいたり服を着たりするのも、不器用なので、他の子の何倍も疲れたのかなとも思います。とにかく動作の鈍いのは続いていましたから。
エピソード3
状況が読めないというか、していいことと悪いことの区別がつかないというか、ときどきドキッとするようないたずらをしました。
彼が3才になったばかりの頃に新居を建て、真新しいソファーを買いました。リビングに3人くらい座れる上等な皮のソファーです。ユッキーはそのソファーのきた日に、夏みかん類の皮をむくカッターのようなものを何故か持っていて、ソファーの座る部分のど真ん中をスーーっと切ってしまいました。「もうもうもう・・・・・なんてことを〜〜〜!」っと母は怒りまくったのですが、本人はブスッとするだけで何も言いません。もちろん謝らない。
「あなたが大きくなったら、絶対買ってもらうからね。」というと、「わかった」と言うユッキーでした。
それから20年。新しいソファーは両親が買いました。次に買う時は、息子が買ってくれるでしょうか?
エピーソード4
もう何のことで怒ったのか忘れたけど、ぜったいに彼が悪いのはわかっているのに謝らないのに怒った母は、ユッキーを押し入れに閉じ込めたことがありました。
「謝らないなあら、ずっとそこに入ってなさい。」
入れたのが2時頃だったでしょうか。泣くかと思ったら、全く動じず、
夕方6時になっても出てこようとしません。別に鍵をかけているわけでもないので、自分で出てこようと思ったら出てこれるのに、出てこようとしないのです。
結局根負けしたのは母の方で、押し入れを開け、彼を出し、こんこんと諭しました。
でも、彼は自分は悪くないと思っている風でした。
こんな素直じゃない子は伸びないよ〜と、悩みまくる母でした。
家ではこんな調子でしたが、保育園ではまあまあいい子のようで、集団での活動も何とか合わせてやっていて、先生からあまり問題を指摘されたりはしませんでした。そこが不思議なところでした。
ユッキー4:牛歩のあゆみ
1才で腸重積になったユッキー。
せっかくつかまり立ちし始めたのにオアズケでした。
1才3ヶ月で妹が誕生。お兄ちゃんになりました。
妹のことは、近づいて行って眺めるけど、あまり興味はなさそう。
相変わらずマイペースなユッキーでした。
その頃やっと歩み始め、みんなで大喜び。
でも、すごくゆっくりなのです。
ドン・・・・・・・・ドン・・・・・・・・ドン
という感じ。
義理の母は保育園の園長をしていたのですが、
「手術したから早くは歩けないんでしょう。」と言ってくれていました。内心はおかしいと思っていたみたいですが・・・・・。
1才半検診では問題はなく、言葉は50単語以上出ていたし、2語文も出ていました。
でも喋り方はボソッという感じ。
「牛乳・・・ちょうだい。」「くるま・・・きた。」
視線は合ったし、ニヒルだけど笑うし、質問には答えるし・・・・・カナーのいうような自閉症ではないわよね。でも何か変と思っていました。
1才7ヶ月、妹の首も座ったので、公園にお弁当を持って散歩に行きました。
ちっとも早く歩けないので、練習しなきゃなあという思いが強かったんです。
親が先に行けば追いかけてくれかなあと思って先から呼んでも
ドン・・・・・・・・・・ドン・・・・・・・・・ドン・・・・
見えなくなったら泣いて追いかけるかなあと50メートルくらい離れて隠れていてもも、
ドン・・・・・・・・・・ドン・・・・・・・・・ドン・・・・
一向に歩を始めようとか、泣いて追いかけるとかなく、マイペースに歩き続けてはいるのです。
おかし〜でしょう〜!!
この子の情緒の発達と運動の発達はいったいどうなってるの???????
と?マークがいっぱいつく母でした。